地元の人達が、現在でも強く反対し続けている背景のひとつとして1997年12月21日に行われた、名護市民投票があります。
■市民投票に対する露骨な介入
「SACO最終報告」が出されたのが1996年12月2日です。その翌年に新基地の建設予定地とされた名護市で市民投票が行われたのです。
基地建設に反対する人達は、この市民投票を実現させるところから始めました。
そして、市民投票は行われる事になったのですが、「賛成」「反対」だけではなく「環境対策や経済効果が期待できるので賛成」と「環境対策や経済効果が期待できるので反対」を含めた4つからの選択というわかりづらい投票方式になりました。
市民投票では那覇防衛施設局の職員が駆り出され、「ゆいまーる作戦」と称して各戸にチラシを配りました。

公平に行われるべき投票でありながら、役人による各戸訪問がされたのです。
さらに、当時の国務大臣で防衛庁長官でもあった久間大臣の署名入りで、自衛隊員に対して協力を呼びかける文書を配布しました。
民間企業も、本土ゼネコン関係企業が「市民投票支援集会」への動員を関連企業に依頼。
沖縄の建設業協会北部支部は不在者投票の目標人数を設定し毎日チェックをしようとして、名護市からの注意を受けました。
市民投票に対するこうした露骨な介入にもかかわらず、結果は反対票が53.8%となり「名護市民は基地建設に反対」という結果が出たのです。
■市民投票の結果を市長が反故に
しかし、当時の比嘉市長は突然東京で「基地の受け入れ」を発表。混乱の責任を取るという形で辞任しました。
つまり当初から、反対票が上回っても基地を受けて入れるというシナリオが作られていたのです。
必死の思いで市民投票に取り組んできた人達にとって、民主主義のルールに乗っ取って行われた市民投票を反故にされた事は「裏切られた」という気持ちになるショッキングな出来事でした。
その後、比嘉市長の辞任を受けて名護市長選が行われましたが、事前に準備をしていた賛成派と違い、反対派は予想もしていなかった市長選挙で候補者の準備に時間がかかったために負けてしまいました。
その市民投票からすでに10年がたちます。この間、政府はさまざまな名目で地元に税金を投入してきました。
経済的にも政治的にも追いつめられてきて、地元では徐々に反対の声を出しづらい雰囲気になっています。
それでも基地建設は絶対に許さないという地元の人の中には、市民投票の結果を反故にされた事に対する怒りが根強く残っています。
比嘉市だけで、日本の、そして極東の
安全保障に直結する基地問題を決め
られるはずがない。
それこそ民主主義に違反する。
辺野古(へのこ)があるのは名護市(なごし)です。
比嘉(ひが)というのは、住民投票が行なわれた当時の名護市長の名前です。